昭和47年01月12日 朝の御理解
御理解 天地書附
「生神金光大神 天地金乃神一心ニ願 おかげは和賀心にあり 今月今日たのめい。」
お道の信奉者の全ての人達心にかけ通しにかけており、また唱え続けに続けておる天地書附だと思います。私この天地書附をの、例えば、今日は内容とかというのではなくて、合楽の信心と天地書附の関わり合いとでも申しましょうか。合楽にご神縁を頂いて信心の稽古をさせて頂く人は、この天地書附をどの様に頂かなければこれは合楽ということではないのですけど、まあ、皆さんに聞いて頂くのですから合楽にご神縁を頂いておる人はこの天地書附をどう頂かなければならないかと。
金光教の信心者、信奉者の全てがそうでなからなければならない。いや金光教だけではない、ね、もう本当いうたら、ね、世界中の総氏子がね、この天地書附の内容を悟ることにより、知ることによって、人間の本当の幸福が得られ、しかも神も助かり、氏子も立ち行くという、所謂神様も喜んで下さり、私共も喜べれる、ね、いわゆる喜びに喜んでいけれるそういうおかげを受ける事になるのですから、ね。
金光教のいわば教祖生神金光大神ではなくて、世界総氏子の生神金光大神という私はおかげを頂かせてもらわなければならない。ましてですから金光教に縁を受けておる者いや金光教の中でも合楽にご神縁を頂いとる者はです、そこのところにひとつまぁいうなら責任を感じさせて頂くほどしの信心を頂いていきたいと。生神金光大神というのは金光様のご信心頂いとるものだけじゃない。
世界中の総氏子生神金光大神、天地金乃神一心に願え、おかげは和賀心にあり、今月今日でたのめいと仰るそういう例えば信心をです、世界中の氏子がそれを唱え、それを思い、人間の幸せはここにあるのだとね、思い込ませて頂けるところまでおかげを頂きたい。そういう願いいわゆる和賀心時代を創るという事は、そういうことだと思う。それでです私は大変な頂き違いやら又は、その頂き不足、分かっていないなぁ分かっていないなぁと思う。節々のところをね、聞いて頂きたいと思う。
教祖様の御教えのすべてが、いわばこの天地書附に書き現れておるというてもよいですね。いうならおかげは和賀心にありと仰られる、その和賀心を頂かせて頂く為に教えの全てがあるというても良いのです。私今日ここんところ特に感じるのですけども、おかげは和賀心にありとこういう。ね、和賀心になっただけでもありがたい。ね、そうでしょうどんな場合であっても自分の心がね、和らいでおる。喜びでいっぱいである。ね、そういう心になれるというだけでもありがたいです。ね、
ところがです、そういう心にならせて頂いたら、いやと言うてもいらん、と言うても、おかげはついてこなければならんのです。私今日そこんところをね、合楽でご神縁を頂いとる人達が、本当にそうだと分からしてもらい、体験さしてもらい、そしてそれを推し進め、広げていかなければならないと思うです。でないと、あまりの事になっていきよるのですよ。私はもうそういう事を耳にしたり、聞いたりいわば「?」いたしますと、本当にそう思います。
昨日、金光青年を送ってまいりました。丁度先月「?」で私の話したことが出ておりました、そこにこの道の働きを求めてという事をある先生が書いておられます。この道の働きを求めて、この道の働きというのはどういう働きかと。またどういう働きを受けなければならないか、また、受けて、おかげを受けていかなければならないか。そのひとつの例話として、ある老人夫婦の話が出ております。
もう八十近いお婆さんだと思います。息子さんが一人ある。息子さん達夫婦にかからずに老夫婦で生活をしておられる。お爺さんは長年中風で休んだきりである。もう風呂に入られるでも便所に行かれるでもお食事をされるでもいちいち手を取られる。それでま、息子達の世話になっちゃならないというので、近所の食堂に皿洗い行かれる。体が健康である。そして少しばかりではあるけれども畑も作っておられる。してその畑の物がでけると一番に教会にお礼参拝、お野菜を持ってはお参りなさる。
その間にまた内職もされる。そして、有り難い有り難いというて毎日参ってこられる。この先生が、ある日お婆さん、」有り難い有り難いというて、ほんなこつどこが有り難いのですか、ち、聞いた。したら自分がこうやって、神様にいわゆるお生かしのおかげを頂いて、生かされて生きておる喜び、おかげで息子達の世話にもならずに、お爺さんを見ていくことがでける。いわゆるまぁ私願いとするところは、どうでもその、お爺さんが早く死ぬような事があってはならん。
お爺さんを看取って、そしてその後に、お国替えのおかげを頂きたいというのが、私の願いでございますが、毎日おかげを頂いて、健康で所謂皿洗いのご用にも行けるし、暇ん時に内職もさしてもらえるし、また暇ん時には畑作りもさしてもらうことがでける。その間にもお爺さんの看病もしておれれる、もう健康のおかげで何を思うてもどこを思うても有り難いおかげを頂いとりますとこう言われる。ね、そういう生き方、そういう生き方が金光教の生き方だと説いておられますね。
もうこれはもう殆どの金光教の先生はこう説くです。私はおかしいと思う。そんなことよかろうはずがないです。それはね、そういう風に言うており働けておれれるという事は、それは本人自身は有り難いかも知れんけれども、私は本当に和賀心てはないのだと。嘘だ。実をいうたらこりゃ私の憶測ですよ。息子達夫婦ちった見てくれそうなもん、ほんに何時までこげん働かにゃんだろうか。よその家に皿洗いどん行っててから本当に業病をもっておるお爺さんをこうやって見とっていかにゃならん。
これ運命といゃ、ま諦め。ね、と私はね、そういう様なものがね、私はありはしないだろうか、いゃあると思うですきっと。ある証拠にです、おかげが伴うてらんじゃないか、私は言いたいですね。和賀心のおかげはあると仰る。それが金光教の信心なんです。病気の中でも、例え貧乏しながらでもどんな中にでも有り難いという和賀心というのが頂けるのです。けれどもその和賀心が頂けたらです。
もう不健康なものは健康にならなきゃならんです。お金の不自由しておる人はお金で不自由しちゃならんです。その和賀心が生まれてくるほどしの、例えいまお婆さんのその節をね、だからそれが金光教といわれている間は、とてもとても世界の名教ともいえないし、世界に広がっていくはずもないと私は思うです。ね、貧乏は貧乏しとるなかにです、ね、喜んで一生を終わっていかなければならんていう話はないです。それは、ね、あるでしょう、皆さんの中にも体の悪い人もあるでしょう。
なら貧乏しとる人もあるでしょう。
けれどもです、私が合楽でいうておる和賀心を求めて信心なさるならです、も決して何時までもその貧乏も続くはずはない。不健康が続くはずはない。これは合楽だけにいっとるのじゃない。教祖金光大神がそう教えてござるのだ。ね、だから和賀心だけでの助かりというような感じですけども、本当はその和賀心になれたらです、ね、おかげはあるとはっきりいうて、私今日そこんとこを分かって頂きたいと思うんです。
皆さんに有り難いと思います、有り難いと思います、というてもです、まぁだまぁだその有り難いというのはちょっと突いたら有り難くなくなったり、ね、例えば息子達夫婦がね、ちゃんと息子が一人息子がおるのだから、ね、本当に信心さして頂いて喜ばして頂きよりましたら、息子達がちゃんとしてくれて、おかげでこういう業病がおかげ頂いて楽になりましたとか、おかげで皿洗いも行かんでね、修行中は誰でもどんな修行もありますけども、皿洗いに行かんでも済むようになりましたとか。
お野菜もちゃんと作ってくれるようになりましたとか、もう本当に例えば病人は嫁ご本当に行き届いた介抱してくれますとかというようなおかげになっていかなければ、私は本当の信心じゃないと思うですが、皆さんどうでしょうか。私はそうだと思うです。でなかったら世界に広めていけれる値打ちはないです。和賀心時代を創る。だからだから現在皆さんも有り難い有り難いと言いながら、貧乏しておるとするならです。その有り難いというその和賀心というものをです。
もっともっと追求しなければいけないと言う事なんです。そして和賀心のおかげがあるという、いわゆる証を自分の上に家庭の上に現わしていかにゃいけんです。皆さん今日、いま私が申しました所がです、是は私が言うておる事なんです。合楽でいうておる事なんです。もう普通にですね、もう金光教の偉い先生方の話を聞けば聞くほどです、ね、例えばこういう素晴らしい生き方があると是に書いてある様な事を只素晴らしい生き方として、尊ばれるのが現在の金光教のように私は思います。ね。
もっともっと和賀心を追求なされなければならんという事。そこでです、んなら和賀心を目指して頂く事の為にまぁそれこそこのみ教えの全てがあります様にその全ての合楽でも何十年間ね、二十何年間説きに説き続けてきておる。たったこれだけの薄っぺらな教典を。そのすべてがです、和賀心にかけられてあるのです。ね、確かにどういう難儀な中にあってもです、どういう苦しい中にあってもです、もう合楽にご神縁を頂いた限りもう絶対おかげ頂くです。
どんな苦しみもう死ぬような苦しみと言っておってもです、その人が一週間合楽に続けて参って来たら人相が変わるです。心が和らいでくるです。はぁこれは自分も助けられるなぁという希望がでけてくるのです。また事実おかげのしるしが見えてくるのです。昨日そこの合楽団地から始めてお参りがあった。田中さんの遠い親戚にあたる。もう何ヶ月か前だったでしょう。開腹手術をされた。レントゲンにいくつも石が、大きな石がでけとるのであるから、是はもう一時を争うというので病院に行かれた。
そこで里のお母さんが田中さんに導かれて参って見えられた。信心がないならね、せっかく手術せんでおかげ頂かれるじゃろうばってんが、折角手術されるならその事をお願いいたしましょうと。けども願ったら最後絶対変わった有り難いことが起こってくるですよ、とま、いうてお取次させて頂いた。昨日だから何ヶ月ぶりにもう退院は早うして見えとるですけども大変やさしいおかげを、もう誕生ぐらいの子供さんを抱き抱えてそこからですから参って見えた。
早うでてこなんと思いよりましたけれども、そして母は私が枕元で言うてくれたことがです、心配するこたぁいらん、お願いした以上は必ず変わったことがあると、変わったことが起こってくるからね、そこからひとつ信心をしておかげ頂かにゃならんというて先生がいいなはったから、安心して手術をしてもらいなさいと母が申しました。ところが事実その通りの事が起こってまいりましたと。もうお医者さんがね、お医者さんが気の毒がってキリキリ舞さっしゃったげな。(笑)
こんなはずはなかちいうてからキリキリ舞さっしゃった。だからお医者さんとしては中に石があった方が良かった訳です。顔が立った訳です。(笑)ところが切開したところがなかった訳です。そしてこげなはずはなかこげなはずはなかちいうてレントゲン撮った写真ばもうちゃんとあるとがこげなこつなかちいうて昨日これはその事をいわれるんです。ほりけん、も、本当にありがたい神様ですねぇという訳なんです。
これも昨日これは一昨日です。原さんの勿体島におります。小西さんこの人の親の様に大事に交際をしておる人が、これも大変なこれは何とかガンでもう医者は手術したっちゃ死ぬる。このまましときゃただ早く死ぬ手術すれば三日ぐらいもてるかん知れんというようなひどい病気であった。それをあのしげ子さんといいますが、しげ子さんがお取次を頂いて、もう本当に真剣に真剣に願われました。それももう半年くらい前の事。
昨日一昨日参って来てから言うんですよ。だからおかげ頂いて退院して帰られて四国に帰られた。娘さんが四国に子供さんがおられるという。最近また具合が悪いというので、もう手紙が来たからわざわざその行って、行ってみた訳ですね。ところがなるほど顔やら手やらこう腫れてから大変まあきつそうにしておられる。そこ近所にお医者さんが、もうもうそれこそ延命先の約束の効なしというわけなんだ。
その薬も効かんし駄目だとこういう訳なんです。それでもういっぺん合楽の金光様にお願いをしてくれないかというのがその両親の願いである。そしてです、ね、あの手術を受ける日に「?」こげんいうてお願いをしたというてその本人が願うた事をしげ子さんがお届けをされるんです。久留米市大橋町合楽町の合楽町の鎮座まします親先生という生神様というて願うた。
どうそ助けて下さいとベットの中でしたら、自分のこう悪いこのうえにですね、もうはっきり始めてお参りして、始めて先生にお会いした、その姿紋付袴の姿で、私の悪いところに座っておられる。にこやかにして座っておられるというて、もうちょっと不思議なことがあった。それを頂いて、私ゃ安心して手術をしてもろた。そしておかげを頂いたという話を、四国に行ってから、しげ子さんが聞いてきたと。ね、合楽に鎮座まします、親先生という生神様、どうぞ助けて下さい、拝む道も知らんけれども、只久留米市大橋町合楽町のというて願うた。
今、日田から綾部さんのお導きで長田さんて方が毎日ご夫婦でお参りなさいます。ね、その方の家に従業員の方これももう今日明日が、難しいという病人でした。ところが昨日だんだんおかげを頂いて、お願いをされたその日を境にいわばおかげ頂いてきた。そしてもう一ヶ月位なるでしょうか、昨日もあちらにお見舞に行かれるところが先生も近いうち退院してよかごたるふうに、ホーそりゃ困ったもんち私が言うた事でございましたけれど、そりゃ早う効いちゃいかん大体は。(笑)ね、
だからね、お願いをした最後も絶対しるしだけは、見えるち私がいうたけどね。ね、けども、それはどこまでもお印なんだから、その後の信心によって、ひとつおかげ、その後の信心が、どういう信心かというと、和賀心を目指してもらう、和賀心の稽古ですから、限りがない信心になっていかなければ駄目だ。昨日、その合楽団地から参って来た、その若い奥さんに、その事を話したんです。ね、おかげで助かったというだけじゃないち。ね、その事をその事はおかげの印なんだから。
これからはいわばね、本気で人間が幸せ幸福になるためにです。これも昨日、久留米のおばさん達がああして熱心に参って来る。今、ご本部参拝を非常に有り難いと、勿論有り難いですから、あの家族で、正月のお参りをしとらなかったからというて、昨日一昨日家族中でお参りになった。ところがちょうど、あちらは十日の月次祭で本当におかげを頂いたと、それで一番に正面に座って、ご祈念をさして頂いとりましたら親先生も、びっくりしましたち。「 ? 」いわれるとです。
奥様はもうご承知のように、非常に霊徳頂いていかれて、非常ないろんなお知らせを頂かれる方なんです。ご主人とかそんな頂いたこともなか、聞いたこともなかった。ところがね、ご本部で十日のお月次祭を頂かせて頂いてここで拝ましてもらいよりましたら、もう目の前にそれこそ偉大な合楽の親先生がお祭りの中に座ってござってびっくりしましたと。そしてそれを頂いてこりゃ私だん一家をあげてからご本部、ご本部ち御本部参拝しよるけれども、ほうら、ご本部参拝するこたぁいらん。
合楽でおかげが受けられると私は思いました、ちいうていわれとります。だからおかげはやはり、なるほど、合楽の方が有り難いと私ゃ思うというてま、その事を聞いて頂いたんですですけれども、そうした例話を、昨日今日お取次さして頂いた例を申しました。どういう意味で、私そういう事を申しますかというとです、ね、合楽にかけられておる、神様の願いをいうことなんです。ね。
合楽でいう所はもう、言わば十年二十年例え前から、椛目から合楽に移ったというのではなくて、もうもうそれこそ前の前から、ね、大きくいうなら千年も万年も前の事から、神定めに神定めてあったのが合楽教会なんだ。私が開こうとして私が造ろうとして開いた教会じゃない。というて善導寺勿体島、ね、椛目常持そして合楽と是はバスの停留所だけを、善導寺に導かれてそして段々信心の過程、そして合楽に落ち着いた。合楽と言う事がね、神様と私共が両方がね、本当に極楽に行けれると。
神様も喜んで下さる氏子も喜べれるそういうね、世界が顕現されることの為に合楽が生まれた。だからお互いその自覚に立たなければいけないというのだ。和賀心時代を創ると。ね、このスローガンがあの高い看板にあの塔に書いてありますように。ね、それにはです、例えば今例えばこの本に出ております、ま私は今金光教と言いたいです、では例えば貧乏しながらでも一生、ね。
有り難い勿体ないと過ごしていければそれがそういう素晴らしい生き方が金光教で出来ると言う様な事ではなくて、そういう難儀があった。けれどもこういうおかげを受けて、和賀心におかげはあると仰る。おかげも和賀心もおかげも、両方頂いていかなければ、金光教の信心にもとる。ね、ただ自分の心を治めるだけならば修養?だってでけるんだ。ね私のごたある本当に和賀心におかげがあるというおかげを頂いて、そしてそれを実証としてそれをいうなら。
商品に見本として世界の市場にでも出したいと、私が言うて居る様なおかげを皆さんの、ひとりひとりが頂いて頂く為になら、もっともっと和賀心を頂いて貰わんならん。和賀心を追求して貰わんならん。ほんなら和賀心とはどういう、いわば生き方にならせて頂いたらとあらゆる角度から和賀心を求めての、日常生活でなかにゃならん。そこに教祖生神金光大神の、所謂生きられ方というものが、ね、手本になる訳であります。
又教えにある所のその教えを行ずる事によって、和賀心が愈々深い広いものになってくる。おかげは和賀心にあると仰る。和賀心とおかげとは、繋がらなければならない。只自分の心の上にだけおかげを受けておると、言った様なものであっはならない。それでは商品見本にはならんて。ね、そこでですなら是だけお参りしよるけども、おかげ頂きらんならば、愈々和賀心を追求さして頂いて、おかげを頂かなければならん。
私は昨日午後座らして頂いておって私がおかげを頂くと言う事は、どう言う様な事だろうかとま色々あの思うて、和賀心を頂くために、先ずこういうような事が、ひとついわゆる、根本にならなければならんのじゃないだろうかと思う。私は人を苦しめようと思うたことがない。皆さんはどうでしょうか。人を苦しめようとしたことがない。ね、そういう心がある間は、和賀心は頂けません。
私を憎む人でも苦しめようと思うた事はない。是は私をいじめ私をこなす人があってもその人を憎もうと思った事がない。是は私ほんなこつです。向こうが向こうならこっちもこっちと思った事がない。向こうは向こうでも、こっちは信心でのと生き方というものがある。刺しに突こうと思うのはそれなんです。向こうが刺してこっちも刺すと言う様なね、だからそう言う様な事を自分でふうたらぬっかなぁと自分で思うた時代もあったけれども、そのふうたらぬくさが結局おかげになったと言う事。
私をいじめる者でも私は憎んだ事がない。むしろ最近ではその事を祈らせて頂いておる。しかし私のやって行く事に人が苦しむ事があるようだ。その姿を見ると私はやはり苦しい。例えばあれだけの生き方私の生き方でです、成程人が困ったり苦しんだりしとる場合がないじゃないあるです。ね、けれども大きな見地からいうてです、ね、だからその私の生き方にです、人が苦しんでおるのを見ると、やはり私は苦しいけれども私は死ぬる人も悩みも悩みつつ私の生きる道を進まねばならん。
私の生き方は、そういう生き方なんです。私は死ぬる人の悩みをね、悩みつつ私の生きる道を進まねばならん。その進まねばならんというところが、私は神様の心に叶うておるのじゃなかろうかと思うです。どういう事を進めていくかというと、どうでも、ね、和賀心時代を創るそういう素晴らしいことに、ね、奉仕させて頂くということがです、そのためにです、例えば周囲に困った人が、悩む人が、苦しむ人があったにしてもです、それはしかたがない。
そして私がそのそういう障害を、でも言うならば、ある意味では私が平気で進んでいくということがね、神様の心に、もう合楽があんなおかげ頂くと、近所の教会がおかげ頂かんから、気の毒かけん、ま、ぼちぼちしとこと言った気持ちが、さらさらないということです。私には。もう本当にそうです。ですからまぁ、その悪いことの対象になるような場合もありますけどもけども、けどもそれはやはり、悩みは悩み苦しみは苦しみですけどもです、ね、それでもやはり、本当なことに向って進まなければならん。
なら今日私が言った事なんかそうです。今の金光教では例えばこう言う様な生き方があるというてそれをいうならば辛抱しておる程度の生き方なんです。お婆さんの例をとりましたね、この本の中に出てくるお婆さん。八十にもなってひとり息子がおりながら息子にかかられんでおるといったような、それでそういう助かり、というのをただ金光教の助かりにしておるですね。それではない。
そうすれば本当に有り難いありがたいということと、本当に有り難いならです、そんな事が何時までも続くはずはないというですから、やはり私がそこをそういう事は違うというて進めなければ私はでけないという訳なんです。・・・・・・・聞き取り不良・・・「 ? 」喜ばせて頂く喜ばせて頂くということにね、おかげを頂かしてもらわんならん。今日私「 ? 」いうなら奇跡という奇跡的なおかげの話をいたしました。不思議な話ですよね。例えばその?さんの本部参拝だって不思議な話です。
そういう様な働きがね、どうしてなら合楽を中心にしてあるかと。昨日私は昨日若先生どんが、夫婦で初の里帰りを良子さんがするので若先生も一緒に参りました。そこでここに午後の奉仕の時にもう着いたじゃろうかなぁと思わして頂いとりましたら、その時私の心の中にひとつの空想ですかね。初の里帰りこりゃそう私が思うとるところに電報が参りました。その電報ごしに私がここに言葉を書かして頂いた。本当に天地につながっておるなぁ通じておるなぁということなんです。
あなたと呼ぶので何かと寄り添うと、何でもないのだと微笑むどうしたのだというと呼んでみたかったのよとにっこり笑う、なんだと微笑むもう手が触れていたと。これは私が書いておったらこの電報が来た。ね、私そして思うのです。なるほど私はね、電報が来る前にもう電報受けておったと。いわゆる天地に通うておるなと自分で思うた。まぁそれは日々そうなんです。私、そういう働きがなら大坪総一郎のうえにです、ね、合楽ではあっておるという事をです、みなさんが知って頂きたいと思うんです。
本当に。ね、ですから私がいうておることはです。昨日熊谷さんがお届けをしておられました。ね、本当に親先生を金光大神として頂くという事をです、長年頂いてまいりましたと。ね、いわゆる天地金乃神を金光大神二代様三代様とこうつながっておる。でそこに大坪総一郎私の親先生がそこにある。なら親先生と即金光大神様として頂いてきたが、もう先生今日という今日ばっかりは金光大神じゃない、天地金乃神様と思いましたというお届けがありました。同じですね大体、一貫しておるのですから。
そういうね、一貫性を持っておる合楽の信心だということです。私は金光様といわれたことはあるはってんから、天地金乃神様といわれたのは今日が始めてです。けどもそれは熊谷さんの実感ですからそうお届けされた。そして私思うです、確かにそういう働きがあってるて、ここでは。いうなら小さい天地金乃神様だと。ですからね、そういう例えばところに縁を頂いておるのであるからです、ただの信心ではいけないて。ね、ただ参りよります拝みよりますというだけじゃいかん。
いよいよ本気です、ね、和賀心とおかげが伴う、和賀心におかげがあると仰せられる和賀心とおかげとがね、伴うていくところのおかげをうちたてるという事は、もうあなたひとり、あなた一家のためじゃないて。それはいよいよ和賀心時代を創ることのためのそれなのだと。だから私共その気にならせて頂いたらおかげが受けられる。和賀心にならせて頂くという事をです、ね。
もう教祖の生きられ方を、例えそげな真似はでけんというのでは決してなくて、私共その気になれば、そうならせて頂いた方が有り難い和賀心が頂けるのであり、有り難い生活がでけるのだと。その為にはです、ひとつ自分の心の中にそういう和賀心になるためにはなりにくい心というものを先ず私は、私は人を苦しめようと思うた事がない。私を憎む者でもそれを憎んだことがない。と言った様なです、心の状態を先ず、ひとつの基本としてです、ね、それがいよいよ和賀心という願いのもとにです、ね。
全てのみ教えがいよいよその和賀心をたらしめていくところのおかげを頂いていかなければならん。ね、そこにいわば、私は合楽のこれはもう合楽のといいたいです、ね、今聞いて頂いたような訳でございますから、合楽のご神縁を頂いたということは、だからただ事ではないとね。と先ず分からして頂いて、ね、本気でです、ひとりひとりがね、本当に取次者にならせて頂くような、いわゆる思いでね、信心をさせてもらわなきゃならん。取次ぐためには先ず和賀心がいる、力がいる。ね。
そういう私はね、和賀心願いを創るというひとつの運動が、合楽から起こって来たのですから、そのひとりひとりが運動員であると思うてです、本気で和賀心を求めての信心にならなければならない。今日は天地書附からね、と合楽の信心の関わり合いとでもいうか、ね、私は今日は天地書附頂いてそんなふうに感じた。ね、これは、ね、ただ、ね、難儀の中に有り難い有り難いというておるような助かり、そういう生き方があるといった様なね、いうならばふうたらぬくい金光教じゃない。
金光教でいうところの和賀心というのは絶対、もうおかげにおかげの花が咲いていく。人間の本当の幸福が約束される。ね、そういうおかげがついてくる、そういうおかげが付いて回ってくるおかげの受けられる、いわば道にお互い縁を頂いてその道をその道として、いわゆる説かせて頂いておる合楽にご神縁を頂いておるということにです、今日私が申しましたようなことをひとつ思い込ませて頂いての信心の稽古でなからにゃいけん、また修行でなからにゃいけんと思うのでございます。
どうぞ。